「あるべき姿の海外調達」を始めるにあたって

イグレン 加藤 文男

 海外調達の最も大きな要因は、円高でした。1985年のプラザ合意以降、1ドル240円から1988年に1ドル140円、更に1991年には120円まで急速な円高が進みました。それまで第1次石油ショック、第2次石油ショックも経験し、全社、全部門を挙げて取り組み改善と工夫で何とか乗り越えてきた日本の製造業ですが、この円高は原材料部品の改善や仕様変更でさらに知恵を絞り対抗するには限界がありました。
更に新しい問題が持ち上がりました。戦後40年日本経済は目覚しい発展を遂げ、1988年当時、日本の貿易黒字は増大し、日本からアメリカへの輸出超過が非常に大きな問題になっていたのです。アメリカは大幅な貿易赤字国となり、その50%を日本からの輸出が占め、日本の輸出不均衡の85%が自動車産業と電気機器産業で占める結果になっていたのです。1989年のワシントンポストとABC放送が共同で行った世論調査において、「日本の経済力の方がソ連の軍事力よりも米国の安全保障にとって脅威である」という衝撃的な報告がなされたのです。アメリカ政府は、米国内の世論や業界の圧力押されて包括通商法301条による報復をちらつかせ、日本に市場開放と輸入拡大を迫ったのです。
この動きに当時の通商産業省は、日本の貿易を輸出中心の国際化からバランスの取れた国際協調へと方針が切り替え、「国際協調に関するアクションプログラム」を作成し、自動車産業や電機機械産業のトップを集めて、輸出を極力抑えてできるだけアメリカからの輸入拡大に力を入れるように厳しい要請をしたのです。

 このような状況で原材料・部品を調達し、製造組立てして輸出をしていた製造業は、国内調達から国際調達に切り替えざるを得なくなったのです。日本の製造業の資材購買担当者は、最初東南アジアの国々で少しでも製造の可能性のある海外調達先を探し出し、品質の維持管理し、納期の確保などの基本的な指導を進めながら海外調達を始めたのです。海外調達では、文化や慣習の違い、更に言葉の問題があり、日本の考え方の理解が得られずに大変な苦労をしながら、多くの失敗を重ねて推進してきたのです。

長く続いた円高も2013年以降、円安の方向に変化がみられ、「国内回帰」という言葉もあります。しかし、一度海外調達や海外生産に切り替えた体制は、国内の空洞化も進み、国内への切り替えも難しく、当面海外調達、海外生産は、国内調達との適度のバランスを保ちながら両面作戦を継続しなければならないようです。

 このような状況のもと、海外調達・海外生産における失敗の経験を踏まえて「海外調達のあるべき姿」を考えたいと思います。

掲載日:2016/03/28