13 海外調達、海外生産までの大きな流れ

イグレン 加藤 文男

 今まで12回にわたり、国内調達と海外調達の違い、海外調達で失敗を繰り返さないための方法をいくつか述べてきたが、ここで日本の製造業がたどってきた海外調達や海外生産までの経緯を振り返っておく。

第2次大戦後、日本の経済は製造業を中心として目覚ましい発展を遂げてきた。1970年代には、日本経済も先進国の仲間入りができた。この状況は、日本の国内総生産(GDP)のフラフでも読み取ることができる。(出典:国民経済計算年報よりグラフ化し、筆者追記)
産業別構成比率で、製造業の占める割合は、20%を超えてきた。
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 海外調達とか国際調達と言われ始めたのは、1980年代後半であるがそれまでも輸入する製品がなかったわけではない。日本は、天然資源に恵まれない国で石油、石炭をはじめ鉄鉱石など原材料のほとんどを輸入に頼っており、現在も変わっていない。これらの輸入に加えて、1970年代以降、綿布、絹織物などの繊維工業製品、サンダル、スリッパなどの履物製品、木竹製品、玩具など軽工業製品を東南アジアから輸入をしてきた。繊維製品や軽工業品の輸入について、海外調達とか国際調達という言葉は使用していなかった。
 日本の貿易は、自動車産業、電気機器や機械機器製品など、輸入した原材料を加工し製品として輸出をするのが中心であった。日本の国際化や海外進出は、日本製品を海外へ輸出販売することを中心としたもので輸入することについては、あまり重要視していなかったといってよい。
日本の経済発展に大きく寄与した製造業であるが社会情勢の大きな変化により、国内だけでなく世界の情勢変化により、対応すべきいろいろな問題が出始めた。
 まず、国内では騒音、振動、排水、廃液など従来になかったことが社会問題とされ、製造業の工場に対する規制の形で現れた。また、工場で働く労働者の意識も変わり、汚い、危険、キツイなど3Kを嫌う傾向が高まり、労働力を確保することが難しくなった。
海外への輸出を中心に発展させてきた自動車産業や電気機械製造業は、1971年のニクソンショックを契機に円高という為替問題に遭遇し、長期にわたって続いた。さらに2回の石油ショックは、使用する原材料(部品)費の高騰となって立ちはだかった。
また、製品を欧米へ輸出することで日本の経済発展に貢献してきたが製造業であるが、欧米への輸出金額の増加と共に貿易摩擦となり、輸入制限から輸入禁止、さらにダンピング課税として大きな問題となった。
製造業は、これらの諸問題に対して東南アジアへの技術移転、製造委託、原材料の海外調達、更に海外生産など対応をし、長期にわたる円高やオイルショックなどにも上手に対応してこれを克服したように見えた。製造業による欧米への輸出金額は、増加の一途をたどり、米国からはさらに厳しい輸入拡大の圧力となって現れた。しかし、米国から輸入する製品や原材料が直ちに見つからない。
1980年代後半、米国の輸入拡大要求圧力に対応するため、当時の経済産業省の要請により、日本の電気機器産業や自動車産業は、台湾、韓国、シンガポールなど東南アジアに「国際調達担当(IPO)窓口」を急遽開設した。そして、とにかく輸入を増やすため、日本国内でつくっていた機構部品、電気・電子部品などを可能な限り台湾、韓国、シンガポールなどからの輸入に切り替えることから始まった。

掲載日:2016/08/27

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